別所温泉源泉の歴史

別所温泉の源泉を守る別所温泉財産区

〒386-1431 長野県上田市別所温泉1700-1

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別所温泉源泉の歴史

別所温泉源泉の歴史(1,400年続く信州最古の温泉)

別所温泉の源泉の歴史は古く、記録で確認できるのは825年(平安時代)からです。
信州最古といわれる別所温泉源泉の歴史を、別所温泉源泉史として源泉を管理する当別所温泉財産区議長(2010年〜)降旗康雄がまとめました。

はじめに

別所の温泉は九世紀になりようやく出現をみている、それ以前つまり古代別所の温泉に関する歴史をひもとくには、あまりにも資料が少ない。そこでここでは、「東山道」と「万葉集」の一端から別所の温泉を多くの人々が利用したであろうことを想像してみた。

別所温泉(七苦離の温泉)の知名度は東山道に負うところが大きいと考えられる。
近江(滋賀県)から東北までの「道」といいながら、東山道の沿線各国は中央集権の行政区となっており、多くの役人、商人、防人、旅人が往来していた。
その沿道にある別所の温泉は、これらの人々の旅の疲れを癒す憩いの温泉として、都をはじめ各地に知られるようになったものと考えられる。

万葉集

多くの人々の行き来は万葉集から求めることが出来る。長短含めた歌は約4,500首といわれその世代を読み取るには格好の材料である。
万葉集は800年前後に成立したといわれ、それ以前の450年間に亘る大和を中心に東国から筑紫までの広い地域を舞台に、天皇、貴族、一般庶民までの作者による歌であり、都で編纂された万葉集に当県近隣に関する歌が取り上げられており、県内には信濃ゆかりの万葉歌の歌碑が50余基もあることは驚きに値する。

これらから当地に多くの人々が往来したことが容易に想像することができ、それが「清少納言」の「枕の草子」につながって来たのではないだろうか。

  1. 信濃路は 今の懇(はり)道(みち) 刈(かり)株(ばね)に 足踏ましむな 履(くつ)はけ 吾(あ)が背(せ) (保福寺峠等4か所)
  2. 信濃なる 筑摩(ちくま)の川の さざれ石(し)も 君し踏みてば 玉と拾はむ (千曲市等4か所)
  3. かの児(こ)らと 寝(ね)ずやなりやむ はだ薄(すすき) 浦野の山に 月片寄るも (上田市浦野)
  4. 唐(から)衣(ころも) 裾(すそ)にとりつき 泣く児(こ)らを おきてぞ来(き)ぬや 母(おも)なしにして (上田市、千曲市)(国造、小県郡住人、他田舎人大島)作  下之郷に古墳あり
  5. 信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時過ぎにけり (上田市等4か所)
平成23年6月21日 別所温泉財産区議長 降旗康雄
表中のリンクは別窓でWikipedia等へリンクしております。
西 暦 年 次 内      容 備 考
825 天長2 別所温泉の出現を伝う

円仁慈覚大師、大師湯入浴

平安時代
826 天長3 慈覚大師北向観世音本堂創建を伝うとの伝説有り  
846 承和13 円仁没  
866 貞観8

円仁没から20年朝廷から慈覚大師の諡さを授かる

同時に最澄も伝教大師の諡を授かる

以降慈覚大師にあやかり大師湯と呼ぶようになったと思われる

天台宗では大師の称号2名のみ
1181 治承4 木曽義仲・葵の舞―大湯(葵の湯)入浴したとの 伝説 新平家物語

この頃、依田城(依田氏)に滞在したとある

1186 文治2 源頼朝、塩田に惟宗(島津)忠久を地頭として送り込む 初代島津家
1277 建治3 北条義政―大湯―入浴 北条湯とも言われた 塩田北条氏の支配下となる

1,333年まで続く

1281 弘安4 大湯薬師堂、長命院玄斉大徳により開基  
1547 天文17 大湯普請  
1574 天正2 大湯に温泉社を創建する
大湯薬師堂の庭よりわずか上がったところに温泉様とよばれる石の祠が5基ある
その1つに玄斉霊と刻まれている
大湯薬師堂上
1622 元和8 大湯、玄斉湯、お茶屋、藩主湯治利用施設となる

真田氏松代へ仙石氏小諸より入封

村上→武田→真田→仙石
1630 寛永7 旅籠屋仲間議定書(世情不穏につき、長脇差、渡世人、無宿者、悪党、風来人等の宿泊はご法度)  
1675 延宝3 石湯屋根ふき替えーかやぶき(かや,縄、院内、岳の尾持ち) 院内、上手中心に村民総出
1687 貞享4

大湯薬師堂を佐久の田口から黄檗宗の道心瑞圓が来 て上の段に移し堂守なる

大湯湯尻あった十王堂も 上に移される

 
1693 元禄6 大湯薬師堂、四国六十六番札所となる  
1698 元禄11 大湯、玄斉湯、太師湯普請の村定の覚え12ケ条制定

御殿、御門の内―村人足は使わないこと

御普請で別所へ来られる時は上田馬で、帰りは別所馬で送る等

 
1701 元禄14 藩主仙石政俊公、入浴後玄斉湯を長命湯と改称するよう指示 公文書―長命湯
1706 宝永3 仙石氏から松平氏に国代えとなり上田藩へ差出帳を提出(仙石氏出石へ、松平氏出石から)

湯5か所(大湯-露天風呂あり、大師湯、長命湯、 石湯、こが湯-露天風呂)

旅舎―院内4軒、大湯16軒、 お茶屋、大湯―上田藩主の保養所

各浴場の坪数、泉質、泉温、入浴状況等報告

普請時の人足―60文/1人・1日

松平氏の支配となる

大湯、大師湯、長命湯は御地頭様普請

こが湯、石湯は所普請

管理は別所村民

99軒―486人(馬-67)

1717 享保2 大湯温泉薬師に石灯篭、石仏等を立てる  
1719 享保4 大師湯源泉及び浴場改修工事(4月~7月)

藩主の命により、塩田の大庄屋、吉田七郎左衛門工事奉行にあたる

板の厚さ沓掛山松の二寸等細かく指示、大工―山田、別所、休息所があった

大庄屋―塩田22か村の庄屋をたばねる
1742 寛保2 大師湯、院内温泉薬師堂、大洪水にて流失

大師湯には開湯者といわれる慈覚大師像もあった

地頭再建。

信濃では「戌(いぬ)の満水(まんすい)」とよび、死者2,800人

関東、近畿も被害大

秋和、正福寺に1,000人塚建つ
1747 延享4 大師湯、大洪水にて流失、村民、旅舎宿泊客困惑

再三にわたる復旧工事の陳情書が出されるが藩主施行せず、せめて小屋がけでもと陳情

大湯商人運上金にて復旧

地頭様財政窮乏再建不可
1774 安永3 大湯のお殿様滞在止宿中の掟と、一般入湯者向きの 掟が細かく定められていた  
1786 天明6 大湯、お茶屋敷総図改められる  
1814 文化11 北向観音境内高台に、温泉薬師堂(医王尊瑠璃殿)完成 村民寄付
1846 弘化3 佐久間象山、来浴

院内に薬師講できる

111戸、581人
1854 嘉永7 旅籠屋仲間21名による6ヵ条の申合議定書により取極めをした  
1871 明治4 明治維新廃藩置県で上田藩は上田県となり5か所の共同浴場は国有(官有地)となる

藩主のお茶屋は競売に出される

共同浴場は別所村民総代の名で借用

村有地―無税地が、借地料を納めるようになった

管理は村の責任
1879 明治12 温泉修繕費予備方法が設けられる 一戸30銭負担
別所温泉
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